ブッカー賞が読んだ東アジア文学
ハン・ガンから楊双子まで、世界の翻訳文学の舞台に上がった、この十年の東アジア文学
インターナショナル・ブッカー賞は、今日、翻訳文学が世界の読者のもとへ届く、その道筋を最もよく示す文学賞の一つである。この賞は、英語に翻訳され、イギリスまたはアイルランドで刊行された長編小説および短編集を対象としており、賞金は作家と翻訳者が分け合う仕組みになっている。言い換えれば、インターナショナル・ブッカー賞は単に「優れた外国小説」を選ぶ賞ではない。文学が一つの言語から別の言語へと移動する、その過程そのものに光を当てる賞なのである。現在の形式で本格的に始まったのは2016年で、その最初の受賞作がハン・ガンの『菜食主義者(The Vegetarian)』だった。そしてちょうど十年後の2026年、同じ舞台で台湾の作家・楊双子の『台湾漫遊鉄道のふたり』(英題 Taiwan Travelogue、原題『臺灣漫遊錄』)が受賞した。本稿は、その十年の軌跡をたどる。
ブッカー賞が英語圏の長編小説の権威を象徴するものだとすれば、インターナショナル・ブッカー賞は翻訳文学の世界的な可視性を象徴する。この賞のロングリスト、すなわち候補リストに入るということは、ある作品が特定の国の文学の中だけで読まれるのではなく、より広い世界文学の対話の中へ入っていったことを意味する。とりわけ2016年以降、東アジアの作家たちの作品が相次いで候補リストに名を連ねるようになり、韓国文学、日本文学、そして中国語圏文学は、英語圏の翻訳文学の場において、ますます重要な位置を占めるようになった。
本稿では、受賞作だけでなく、候補作もあわせて見ていく。最終的な受賞作だけでは、一つの文学圏がどのように読まれているのかを十分に捉えることはできないからである。候補作全体を眺めると、この十年のあいだにインターナショナル・ブッカー賞が東アジア文学の中に何を見出してきたのかが、よりはっきりと見えてくる。身体、記憶、国家暴力、ジェンダー、都市、植民地経験、近代化の傷、未来への不安。東アジア文学は、単一の「アジア的感性」として読まれてきたのではない。それぞれの言語と歴史の中で、現代世界が共有する亀裂を映し出す文学として読まれてきたのである。
ハン・ガン, 『菜食主義者』(The Vegetarian)
2016 受賞作 · 韓国語 · 英訳:デボラ・スミス / 日本語訳:きむ ふな

2016年、インターナショナル・ブッカー賞の最初の受賞作に選ばれたハン・ガンの『菜食主義者』は、韓国文学が世界の翻訳文学の場で新たな注目を集める決定的な契機となった作品である。この小説は、ある日突然、肉食を拒むようになった女性ヨンヘを中心に、家族、欲望、暴力、身体、沈黙といった問題を、三つの視点から描き出す。表面的には、一人の女性が菜食を宣言するところから始まる。しかし物語が進むにつれて、読者はそれが単なる食習慣の変化ではなく、家父長的な家族秩序と社会的暴力に対する、極端でありながらも、沈黙による抵抗であることに気づいていく。
『菜食主義者』の重要性は、韓国文学が英語圏において、もはや「分断」や「歴史的悲劇」という枠組みの中だけで読まれるものではないことを示した点にある。この作品は、きわめて韓国的な家族構造と抑圧の感覚を含みながらも、身体をめぐる普遍的な暴力と自由の問題へと広がっていく。ハン・ガンの文章は抑制されているが、その内側にあるイメージは強烈で、不穏である。この作品以降、韓国文学は世界の読者によって、より本格的に読まれるようになった。
閻連科, 『四書』(The Four Books)
2016 最終候補作 · 中国語 · 英訳:カルロス・ロハス / 日本語訳:桑島道夫

閻連科の『四書』は、中国現代史の最も暗い記憶のひとつである大躍進運動と、それに続く大飢饉を、寓話的な形式で描いた小説である。この作品は、知識人たちが強制労働収容所に閉じ込められた世界を舞台に、政治的狂気、生存、裏切り、信仰、そして書くことといった問題を、独特の文体で描き出していく。タイトルが示すように、この小説はさまざまな「書物」や記録の形式を借りながら、歴史を語る。
この作品の意義は、国家によって管理された歴史の中で、文学がどのように別の記憶の形式を作り出せるのかを示す点にある。閻連科は、直接的なリアリズムではなく、寓話とグロテスクな想像力を通して、中国現代史の暴力を浮かび上がらせる。そのため『四書』は、単に中国の特定の歴史を描いた小説ではない。国家が記憶を支配しようとするとき、文学がどのように検閲を迂回しながら真実を保存することができるのかをめぐる作品となっている。
大江健三郎, 『水死』(Death by Water)
2016 候補作 · 日本語 · 英訳:デボラ・ボリヴァー・ベーム

大江健三郎の『水死』は、老年の作家が、遠い昔の父の死と家族の記憶をたどり直す小説である。大江は、自身の分身に近い作家像を通して、私的な記憶、戦後日本の歴史、天皇制の残影、文学と自己省察の問題を一つに織り合わせる。この作品は、事件を中心に展開する小説というよりも、記憶と書くことの層をゆっくりとたどっていく、後期大江文学らしい省察的な作品である。
この作品がインターナショナル・ブッカー賞の候補となったことは、日本文学が世界文学の場において、ミニマリズムや日常を描く文学としてだけ読まれているわけではないことを示している。そもそも大江文学は、戦後日本の知的歴史の核心に位置している。『水死』は、個人史と国家の記憶がどのように絡み合うのかを問う作品である。一人の作家が自らの家族の過去を掘り下げることは、そのまま日本現代史の深い水底へ降りていくことでもある。
閻連科, 『炸裂志』(The Explosion Chronicles)
2017 候補作 · 中国語 · 英訳:カルロス・ロハス / 日本語訳:泉京鹿

閻連科の『炸裂志』は、小さな村が巨大な都市へと膨張していく過程を、誇張とグロテスクを交えながら描いた作品である。題名の「炸裂」、すなわち爆発が示すように、この小説が描き出す世界は、成長、欲望、腐敗、権力、資本のエネルギーに満ちている。一つの共同体が「発展」という名のもとにどのように変形され、その過程で人間の倫理や関係がどのように損なわれていくのかが、ブラックユーモアと風刺を通して浮かび上がる。
この作品は、中国型の近代化と開発がはらむ狂気を文学的に凝縮している。経済成長と都市化は、単なる成功や発展の物語ではなく、記憶と共同体を揺るがす巨大な力として現れる。東アジアの多くの都市は、開発と再開発、成長と喪失の経験を共有している。『炸裂志』はその中でも、中国的な速度と規模を、ひときわグロテスクに、そして鋭く描き出した作品である。
ハン・ガン, 『すべての、白いものたちの』(The White Book)
2018 最終候補作 · 韓国語 · 英訳:デボラ・スミス / 日本語訳:斎藤真理子

ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』は、小説、エッセイ、詩の境界をゆるやかに越えていく作品である。白いものたち――産着、雪、米、塩、紙、鳥、息――をたどりながら、作家は、生まれてまもなく亡くなった姉の存在と自らの生を重ね合わせていく。この本は、伝統的な筋書きよりも、イメージと哀悼のリズムによって動いていく。白は純粋さの色ではなく、喪失と生存、哀悼と生き直しの色となる。
『すべての、白いものたちの』は、『菜食主義者』以後、ハン・ガンの文学が世界の読者にどのように受け止められていったのかを物語っている。この作品において重要なのは、出来事の大きさではなく、感覚の深さである。ハン・ガンは個人的な喪失を歴史的な廃墟へと結びつけ、生と死のあいだにあるかすかな境界を、言葉でたどっていく。韓国文学が世界文学の中で、強烈な物語だけでなく、静かな哀悼の形式としても読まれうることを示した作品である。
呉明益, 『自転車泥棒』(The Stolen Bicycle)
2018 候補作 · 中国語(台湾) · 英訳:ダリル・スターク / 日本語訳:天野健太郎

呉明益の『自転車泥棒』は、失踪した父と盗まれた自転車を探す物語から始まる。しかしこの小説は、単なる家族ミステリーにとどまらない。一台の自転車をたどるうちに、台湾の植民地経験、戦争、技術、動物、収集、そして家族史の記憶が複雑に絡み合っていく。一見ささやかに見える物が、一つの社会の歴史全体へとつながっていくことこそ、この作品の核心である。
この作品は、台湾文学が持つ独特の記憶の感覚をよく表している。台湾の歴史は、日本統治時代、戦争、国民党統治、そして重層的なアイデンティティの中で形づくられてきた。『自転車泥棒』は、巨大な歴史を正面から説明するのではなく、物、痕跡、断片的な記憶を通してそこへ近づいていく。歴史がときに国家の記念碑よりも、古びた品や個人の探求の中にこそ深く残ることを、この小説は教えてくれる。
残雪, 『新世紀愛情故事』(Love in the New Millennium)
2019 候補作 · 中国語 · 英訳:アネリース・ファインガン・ワズモーン / 日本語訳:未刊

残雪の『新世紀愛情故事』は、容易に要約することのできない小説である。この作品は、愛、欲望、労働、監視、幻想、身体感覚が入り混じる世界を描いている。登場人物たちは、明確な心理的説明によって動くのではなく、夢と悪夢、奇妙な会話、そして定まらない感覚の中を進んでいく。残雪の文学は、読者にわかりやすい物語を差し出すというよりも、私たちが慣れ親しんでいる現実感覚そのものを揺さぶる。
この作品の意義は、中国文学が必ずしも歴史的リアリズムや政治的寓意の形を通してのみ世界文学の場に現れるわけではないことを示した点にある。残雪は、きわめて実験的で、難解で、超現実的な方法で、人間の欲望と不安を描いている。彼女の作品は、中国という特定の社会を越えて、現代人の内面と、世界そのものの不安定さを、奇妙な夢のように浮かび上がらせる。
黄晳暎,『たそがれ』(At Dusk)
2019 候補作 · 韓国語 · 英訳:ソラ・キム=ラッセル / 日本語訳:姜信子・趙倫子

黄晳暎の『たそがれ』は、成功した中年の建築家と、若い世代の不安定な生を交差させながら、韓国社会における開発、階級、記憶の問題を描く作品である。かつて貧しい青年だった主人公は、産業化と都市開発の流れの中で成功を手にした。しかしその現在は、過去の喪失と負い目から逃れられずにいる。若い世代の不安は、彼が生きてきた時代の影のように、物語の底に置かれている。
この作品は、黄晳暎の文学が長く扱ってきた韓国現代史の変化と民衆的な感覚を、都市の物語として凝縮している。韓国の圧縮成長と開発は、ある人にとっては上昇の機会だったが、別の人にとっては押し出され、喪失していく経験でもあった。『たそがれ』は、成功した都市の表面の下に残る階級的な亀裂を浮かび上がらせる。
小川洋子, 『密やかな結晶』(The Memory Police)
2020 最終候補作 · 日本語 · 英訳:スティーヴン・スナイダー

小川洋子の『密やかな結晶』は、ある島で物が一つずつ消え、人々がそれにまつわる記憶までも失っていくディストピア小説である。鳥、薔薇、写真、香水が次々と消えていき、消えたはずのものを忘れられない人々は、「記憶警察」の監視対象となる。静かで抑制された文体で書かれていながら、この作品の世界は、しだいに不気味な統制と忘却の空間へと変わっていく。
この小説は、記憶と権力の関係を鋭く問いかける。何が消えたのかを思い出せない社会は、自分たちが何を失ったのかさえ気づくことができない。『密やかな結晶』は、日本文学特有の静謐な空気の中で、検閲と順応、忘却と抵抗という普遍的な主題を扱っている。東アジアの記憶政治という観点から見ても、この作品は重要である。記憶を失うことは、単なる個人的な悲劇ではなく、きわめて政治的な事態でもありうるからだ。
残雪, I Live in the Slums(原題『贫民窟的故事』)
2021 候補作 · 中国語 · 英訳:カレン・ガーナント、陳則平 / 日本語訳:未刊

残雪の I Live in the Slums(邦訳未刊、英訳タイトル)は、短編集の形をとりながら、現実と夢、動物性と人間性、貧困と幻想が入り混じる世界を展開している。題名は社会の周縁を暗示しているが、残雪の「スラム」は単なる社会学的な空間ではない。それは、人間の無意識、欲望、不安、存在の不気味さがあらわになる、得体の知れない場所に近い。
この短編集には、残雪文学の実験性がよく表れている。彼女は読者に安定した解釈を許さない。その代わりに、文学がどれほど異質で不穏な感覚を作り出しうるのかを見せてくれる。この作品は、中国語圏文学の一つの流れが、リアリズムに依拠して歴史を語る文学とはまったく異なる方向、すなわち超現実的で哲学的な、内面へと沈み込む文学としても、世界の読者に読まれていることを示している。
チョン・ボラ, 『呪いのウサギ』(Cursed Bunny)
2022 最終候補作 · 韓国語 · 英訳:アントン・ハー / 日本語訳:関谷敦子

チョン・ボラの『呪いのウサギ』は、ホラー、SF、ファンタジー、民話、ブラックユーモアが入り混じる短編集である。呪いのかけられたウサギ型のランプ、身体と物の変形、家族と資本主義の暴力、復讐、そしてグロテスクな欲望が、それぞれの物語の中に異様なかたちで姿を現す。この作品は、韓国文学が必ずしもリアリズムや歴史小説の形でのみ世界へ届くわけではないことを、あざやかに証明してみせる。
『呪いのウサギ』の意義は、ジャンル文学であることと文学的であることは矛盾しないという点を、力強く示したところにある。チョン・ボラは、奇怪で、ときに残酷な想像力を通して、現代社会の暴力性を浮かび上がらせる。家族、労働、資本、ジェンダー、身体の問題は、怪物や呪い、幻想的な装置を通して、かえって生々しく立ち上がってくる。この本は、韓国文学が世界に差し出しうるものの幅を、ジャンルの側から大きく押し広げた作品である。
川上未映子, 『ヘヴン』(Heaven)
2022 最終候補作 · 日本語 · 英訳:サム・ベット、デイヴィッド・ボイド

川上未映子の『ヘヴン』は、いじめを受ける二人の中学生を中心に描かれる小説である。主人公の少年は、斜視であることを理由に同級生からいじめを受け、同じクラスの少女コジマもまた、執拗な暴力の対象となっている。二人は互いを理解し合っているように見えるが、この小説は、被害や連帯、そして苦しみの意味を、単純な慰めへと回収しない。
この作品は、暴力と倫理をめぐる不穏な問いを投げかける。苦しみには意味があるのか。被害者はそれをどう引き受けるべきなのか。加害者の論理は、社会の中でどのように機能するのか。『ヘヴン』は、日本文学の繊細な心理描写と哲学的な問いが結びついた作品である。とりわけ、ジェンダー、身体、思春期の暴力という問題を通して、私たちの倫理感覚の暗部を浮かび上がらせている。
パク・サンヨン, 『大都会の愛し方』(Love in the Big City)
2022 候補作 · 韓国語 · 英訳:アントン・ハー / 日本語訳:オ・ヨンア

パク・サンヨンの『大都会の愛し方』は、ソウルに生きる若いクィア男性の恋愛、友情、病、孤独、そして都市的な感覚を描いた連作小説である。作品は軽やかでユーモラスな声から始まるが、その内側には、恋の失敗、家族との距離、社会的なスティグマ、死と喪失の影が深く流れている。この小説においてソウルは、単なる背景ではなく、欲望と孤独が同時に生まれる場所である。
この作品の重要性は、韓国文学が世界文学の場において、都市に生きる若者の感覚と、クィアな声を持つ文学としても読まれ始めた点にある。『大都会の愛し方』は、巨大な歴史や国家暴力ではなく、個人の恋愛と生活、友人たちとの会話、クラブ、病院、家といった具体的な場所を通して、韓国社会を映し出す。この作品は、大都市の現代的な生が、いかに私的で、ユーモラスで、同時に痛みを帯びたかたちで文学化されうるのかを示している。2022年の候補リストには、チョン・ボラとパク・サンヨンという二人の韓国作家が同時に名を連ねた。韓国文学の多層性が、ひときわくっきりと浮かび上がった年だったと言える。
チョン・ミョングァン, 『鯨』(Whale)
2023 最終候補作 · 韓国語 · 英訳:チヨン・キム / 日本語訳:斎藤真理子

チョン・ミョングァンの『鯨』は、巨大な物語のエネルギーに突き動かされる小説である。物語には、奇妙な人物たち、暴力と欲望、事業と没落、女たちの人生、民話的な想像力、そして映画的な場面があふれている。この作品は、韓国現代史の特定の時期を直接描くというよりも、朝鮮半島の近代化と資本の欲望を、寓話的で誇張された物語として突き進んでいく。
『鯨』は、韓国文学がミニマルで抑制された作風だけで世界に紹介されるわけではないことを示している。むしろこの小説は、過剰さ、活力、グロテスクさ、大衆的な物語の力によって読み手を引き込む。インターナショナル・ブッカー賞の最終候補(ショートリスト)に残ったことは、韓国文学のもう一つの顔――荒々しさ、物語性、民話的なエネルギーに満ちた顔――が、世界の読者にも強く響きうることを示す出来事だった。
鄒静之, Ninth Building(原題『九栋』)
2023 候補作 · 中国語 · 英訳:ジェレミー・ティアン / 日本語訳:未刊

鄒静之の『九棟(Ninth Building)』は、文化大革命の時代を背景にした、自伝的な断章を集めた作品である。作者は、幼年期と青年期の記憶を通して、中国現代史の激動を振り返る。しかしこの作品は、声高な政治的スローガンではなく、日常の小さな場面と個人の記憶の中から、その時代を立ち上げていく。国家的な暴力は、大きな事件としてだけ存在するのではなく、日々の暮らしや人間関係、成長していく時間の中に染み込んでいく。
この作品の意義は、中国現代史の傷を、回想的でありながら抑制された筆致で描いた点にある。『九棟(Ninth Building)』は、記憶の文学が必ずしも直接的な告発の形をとる必要はないことを示している。ときに、ある時代の暴力は、一人の人間が育っていく日々や、建物の名前、ささやかな日常の場面の中にこそ、かえって長く残る。
黄晳暎,『鉄道員三代』(Mater 2-10)
2024 最終候補作 · 韓国語 · 英訳:ソラ・キム=ラッセル、ヨンジェ・ジョセフィン・ベ / 日本語訳:未刊

黄晳暎の『鉄道員三代』は、韓国の近現代史を、鉄道労働者の家族史を通して壮大に織り上げた作品である。英題の Mater 2-10 は蒸気機関車の型式名であり、この小説において鉄道は単なる交通手段ではない。植民地、産業化、労働運動、分断、そして民衆の記憶を貫く象徴となっている。一つの家族の物語は、そのまま朝鮮半島の近現代史の長い軌道と重なり合う。
この作品は、黄晳暎の文学が長年抱いてきた関心――民衆、労働、歴史、分断、産業化――が凝縮された小説である。インターナショナル・ブッカー賞の最終候補に残ったことは、韓国近現代史の集団的記憶が、今なお世界の読者に切実な問いとして響きうることを示している。『鉄道員三代』は、韓国文学が個人の内面だけでなく、労働と歴史、世代の記憶を通しても世界文学の場に届きうることを証明する作品である。
市川沙央, 『ハンチバック』(Hunchback)
2025 候補作 · 日本語 · 英訳:ポリー・バートン

市川沙央の『ハンチバック』は、障害のある女性の身体と欲望、書くこと、性的な想像力、そして社会のまなざしを挑発的に扱った作品である。主人公は、先天性の難病により重い身体的制約を抱える人物であり、自らの身体的条件と、社会によって課された限界を鋭く意識している。この作品は、読者に同情や感傷的な慰めを求めない。むしろ、不快なほど直接的なかたちで、身体と欲望の問題を突きつける。作者自身が、身体障害のある作家として初めて芥川賞を受賞したことは、この小説をめぐる日本文学の場の変化そのものを象徴する出来事でもある。
この作品の意義は、日本文学の中で、障害、ジェンダー、欲望、文学的な自己表現の問題を真正面に据えた点にある。『ハンチバック』は、「身体」が単なる個人的な条件ではなく、社会的かつ政治的な場でもあることを示している。インターナショナル・ブッカー賞のロングリストに選ばれたことは、世界の読者が、東アジア文学の中に、ますます多様な身体と声を読み取り始めていることを物語っている。
川上弘美, 『大きな鳥にさらわれないよう』(Under the Eye of the Big Bird)
2025 最終候補作 · 日本語 · 英訳:米田麻沙

川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』は、遠い未来の人類を想像する作品である。人間はもはや、私たちが知っているような形で生まれることも、生きることもない。人工的に管理され、隔離され、観察される存在となった人間たちの世界で、この小説は、生命、種、ケア、孤独、進化の問題を、静かに、しかしどこか見知らぬ手ざわりとともに問いかける。
川上弘美は、日常と幻想、人間と非人間の境界をやわらかく揺らしていく作家である。この作品で彼女は、ポストヒューマン的な想像力を通して、人間とは何かをあらためて問い直す。東アジア文学が、過去の記憶だけでなく、未来の生命倫理や種の存続への不安までも探り始めていることを示す好例である。『大きな鳥にさらわれないよう』は、静かでありながら巨大な問いを投げかける。どれほど変わっても、人間はなお人間であり続けるのか。
楊双子, 『台湾漫遊鉄道のふたり』(Taiwan Travelogue)
2026 受賞作 · 中国語(台湾) · 英訳:リン・キング / 日本語訳:三浦裕子

楊双子の『台湾漫遊鉄道のふたり』は、1930年代、日本統治下の台湾を舞台にした作品である。日本人作家が植民地台湾を訪れ、現地の通訳であり料理にも通じた一人の女性とともに各地をめぐる物語で、発見された日本語の回想録を「翻訳」したという枠組みをとっている。旅行記、食文化、翻訳、二人の女性のあいだに生まれる微妙な関係、そして両者を隔てる権力の非対称性が複雑に絡み合うこの小説は、台湾という場所が帝国のまなざしの中でどのように消費され、同時に自らの記憶と感覚をどのように保ち続けるのかを描き出している。
この作品の意義は二重である。一つは、台湾文学が世界の翻訳文学の表舞台に本格的に立った点にある。もう一つは、この作品が、中国語(マンダリン)で書かれた作品として初めてインターナショナル・ブッカー賞を受賞した点である。東アジア文学を語るとき、韓国・日本・中国を中心とする構図はあまりにも頻繁に繰り返されてきた。『台湾漫遊鉄道のふたり』は、その構図を揺さぶる。中国語の文学は、必ずしも中国本土の歴史を語る文学を通してのみ世界に届くわけではない。台湾の植民地経験と女性たちの物語、食と旅の感覚もまた、それ自体で一つの時代の記憶を宿しうる――『台湾漫遊鉄道のふたり』は、そのことを静かに証明してみせた。
東アジア文学はどのように読まれているのか
このリストをたどっていくと、いくつかの流れが見えてくる。
第一に、韓国文学は、身体と暴力、都市とクィア性、労働と近現代史の記憶を通して読まれてきた。ハン・ガン、チョン・ボラ、パク・サンヨン、チョン・ミョングァン、黄晳暎は、それぞれまったく異なる作家である。しかしいずれの作品も、韓国社会の圧縮された近代性が残した傷とエネルギーを映し出している。
第二に、日本文学は、記憶の消滅、身体の脆弱性、暴力と倫理の問い、そして人間という存在の先にある未来を探るものとして読まれてきた。大江健三郎、小川洋子、川上未映子、市川沙央、川上弘美の作品は、戦後日本の記憶からポストヒューマン的な未来まで、幅広い問いを投げかけている。
第三に、中国語圏文学は、国家と記憶、歴史的寓意、実験的な想像力、そして台湾の植民地経験とアイデンティティの問題を通して、世界文学の場に姿を現してきた。閻連科と残雪は、中国本土の文学の異なる両極を示し、呉明益と楊双子は、中国語(マンダリン)で書かれた文学が、本土の外でどのような時間と感覚を生み出しうるのかを、世界の読者に問いかけている。
インターナショナル・ブッカー賞が読んだ東アジア文学は、単一の地域文学ではない。それは、身体が抵抗する文学であり、記憶が消えていく文学であり、国家が個人を圧迫する文学であり、都市が愛と孤独を抱え込む文学であり、植民地と近代化の時間がいまだ終わらない文学である。
東アジア文学が世界文学の舞台に上がるということは、単により多くの翻訳書が刊行されるという意味だけではない。それは、この地域の歴史と感覚、傷と想像力が、新しい言語を通して世界の読者と出会うということでもある。翻訳は文学を移動させる。しかし同時に、それは一つの地域が自らを再び読まれるものにしていく方法でもある。作家と翻訳者が賞金を分け合うこの賞の仕組みは、一冊の本が世界に届くためには、つねに二人――あるいは二つの言語――が必要であることを、毎年思い出させてくれる。
2016年のハン・ガン『菜食主義者』から、2026年の楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』まで、インターナショナル・ブッカー賞の最初の十年は、東アジア文学がいかに広く、そして深く世界文学の一部となってきたのかを物語っている。そして、そのリストはまだ完成していない。これからも東アジアの文学は、別の言語へと移動しながら、私たちがまだ十分に読み尽くしていないこの地域の時間と記憶を、世界へと送り出していくだろう。