ともに老いていく東アジア

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ともに老いていく東アジア
日本の街を、ともに歩む二人の老人。Photo by Sacha Canivet on Unsplash

人口危機の実験室としての東アジア

🇬🇧 🇰🇷

日本の人口がまた減ったというニュースを読む。あえて「また」と書いたのは、この種の記事が、毎年ほとんど同じ見出しで更新される訃報のように感じられるからだ。死亡者数が出生数を大きく上回り、ひとつの県が丸ごと消えるほどの人口が一年で失われたという。私たちは、そうした文章を目にするたびに、聞き慣れた不安をもう一度取り出す。国が老いている。働き手が消えていく。子どもが生まれない。地方は空洞化し、都市は物価が上がり、家族は小さくなり、未来の世代の肩にのしかかる負担は重くなる。

日本は長い間、東アジアの人口の未来を最初に映し出す鏡だった。しかし、その鏡に映っているのは、もはや日本だけではない。韓国、中国、台湾を含め、東アジアの高密度な工業社会の多くが、同じ方向へと進んでいる。子どもは減り、高齢者は増え、家族は小さくなり、結婚は遅くなり、住居費は高騰し、未来は不透明になる。速度と規模は異なるが、進んでいる方向は驚くほど似ている。韓国は日本より遅れて出発したが、すでに日本を追い越した。中国はさらに遅れて同じ道に入ったが、その規模はこれまで東アジアが経験したことのないほど大きい。

しかし、改めて問い直す必要がある。人口減少は、本当に私たちが恐れているほど深刻な破局なのだろうか。

20世紀の工業国家の想像力において、人口減少はそのまま国力の低下を意味した。より多くの人がより多くの工場で働き、より多くの兵士が国境を守り、より多くの消費者が市場を拡大していた時代には、人口は成長の別名だった。若い労働者が税を納め、高齢者が支えられ、国家はその均衡の上に福祉と軍事と産業を設計した。だからこそ、出生数が減り、生産年齢人口が縮小することは、経済のエンジンそのものが冷え始めることのように見えた。

しかし、21世紀の半ばへと向かう現在、この公式は揺らぎ始めている。私たちはもはや、人間の手と時間だけで生産力を計算する時代に生きているわけではない。人工知能は知的労働の一部を自動化し始め、ロボットは製造、物流、ケア、サービスの現場へと少しずつ入り込んでいる。かつては労働者が一人減れば、生産量もその分だけ減った。しかし、これからは一人の人間が複数のアルゴリズムを使い、複数の機械を動かすかたちで、生産性が再編されていくかもしれない。工場から労働者が姿を消したあとに残るのは、空っぽの作業台だけではない。何十本ものロボットアームを監視する一人のエンジニアが、そこに座っているかもしれない。

人口が減る社会が、必ずしも貧しくなるわけではない。その可能性が見えてくるのは、まさにここからだ。

東アジアは、この転換の最前線に立っている。逆説的だが、世界で最も急速に老いている地域が、世界で最も強い自動化への圧力を生み出す可能性がある。日本はすでに長年にわたり、高齢者ケア、製造業、生活サービスの分野でロボットを試してきた。韓国には、半導体、バッテリー、製造自動化、デジタル行政、AIインフラを結びつける産業基盤がある。中国は巨大な製造業の生態系と国家主導のロボット産業戦略を通じて、労働力不足を技術転換の契機にしようとしている。中国本土が製造現場の自動化を加速させる一方で、香港のような金融・サービス都市は、AIによるオフィス業務の自動化をより早く体感することになるだろう。台湾は半導体サプライチェーンの中核にある。

つまり、東アジアの人口危機は、単なる「人手不足」ではない。「人は増え続ける」という前提のもとに設計された社会システムそのものが揺らいでいるという危機だ。年金制度は、より多くの若い世代が労働市場に入ってくることを前提としている。地方都市は、学校、病院、道路がこれからも維持されるという想定のもとで拡張してきた。企業は、長時間働く若い人材をいつでも採用できると考えて成長してきた。家族は今なお、誰かが担う無償のケア労働に依存している。そしてその担い手は、多くの場合女性だ。

出生率の低下は、こうした前提がもはや成り立たないことを明らかにしている。

ここでAIとロボットは、単なる生産性向上の道具ではない。人口減少に耐えるために、東アジア社会が導入せざるを得ない文明的インフラになっていく。工場ではロボットが人手不足を埋め、行政、金融、翻訳、法律、教育、コンテンツ産業では、AIが反復的な業務を効率化する。農村では自動運転農機やスマート農業が減少する働き手を補い、都市ではデータに基づく交通・エネルギー管理によって、より少ない人口でも社会を維持できる可能性がある。

しかし、この変化が最も切実に感じられる場所は、夜中の介護施設かもしれない。誰もが眠っている時間に、一人の高齢者がベッドから起き上がろうとして、バランスを崩す。かつてなら、廊下を巡回していた誰かが偶然発見するしかなかった場面を、これからは床のセンサー、カメラ、通報システム、移動支援ロボットが先に感知できるかもしれない。技術は、人間からケアを奪うために導入される必要はない。人間が見落としやすい瞬間を捉えるために、ケアの現場へ入ることもできる。減少する人口を「代替する」という抽象的な議論は、最終的にはこうした場面へと翻訳されなければならない。

この変化は、東アジアの社会と相性がいい。この地域の国々は、おおむね教育水準が高く、デジタルインフラが発達しており、製造業と都市システムが緊密につながっている。同時に、人口減少を大規模な移民によって解決することには、西欧社会よりも慎重だ。労働力不足が深刻な分野で、限定的かつ選別的な移民の受け入れは増えていくだろう。しかし、移民だけで人口構造の変化を元に戻すことはできない。

移民は政治的に制約される。自動化は経済的に強いられる。

だからこそ、東アジアの各国政府は、AI、ロボット、スマートシティ、遠隔医療、自動化された行政、スマート農業、無人物流、高齢者支援技術を国家戦略の中心に据えざるを得ない。しかし、ここでもうひとつの問いが生まれる。それぞれの国が、この道を単独で進むことはできるのだろうか。

逆説的だが、人口減少は東アジアを再び結びつける、最も現実的な議題になるかもしれない。韓国と日本は歴史問題をめぐってしばしば距離を置き、中国と周辺国は地政学的緊張のなかで互いを警戒している。台湾は主権とアイデンティティをめぐる、さらに複雑な問題を抱えている。東アジア協力はこれまで何度も語られてきたが、常に難しかった。過去はいまだ終わっておらず、領土問題も残っている。米中の戦略競争は、この地域のあらゆる関係をさらに緊張させている。

しかし、出生率の低下と高齢化は、国境と理念を越えて進んでいく。日本の介護施設で起きていることは、やがて韓国の病院、中国の都市、台湾の家庭でも繰り返されるだろう。韓国の超少子化は、日本が先に通ってきた道を圧縮したような現象であり、中国の高齢化は、同じ問題を前例のない規模にまで押し広げる。台湾の高密度な都市は、高齢化が都市インフラにどのような圧力を与えるのかを示す、もうひとつの実験場になりうる。

東アジアの国々は、互いを好きになれなくても、互いから学ばなければならない状況に置かれている。政治的には互いを疑っている。しかし、人口構造という点では、すでに同じ病棟に入院しているようなものだ。ベッドの位置が気に入らないからといって、診断書の内容が変わるわけではない。

この協力は、壮大な「東アジア共同体」という旗印のもとで始める必要はない。むしろ、そうすれば失敗する可能性が高い。東アジアの歴史的・政治的な緊張を考えれば、協力は理念やアイデンティティではなく、より実務的な領域から始めるべきだ。介護ロボットの安全基準、高齢者向け遠隔医療システム、介護データの標準化、スマート農業と無人物流、空き家や地方消滅に対応する都市政策、AIを活用した行政サービス。こうした分野は、歴史問題や安全保障上の対立よりも政治的に扱いやすい。

最も現実的な出発点は、ケア技術だ。高齢化は、統計表のなかだけに存在する問題ではない。誰かの体を起こし、薬を忘れないようにし、病院へ連れていき、夜を通して安全を確かめるという問題だ。ケア技術は、最も人間的な問題と、最も機械的な解決策が出会う地点にある。

日本は、東アジアで最初に超高齢社会へと入った国として、高齢者ケアと生活支援技術の分野で多くの試行錯誤を積み重ねてきた。韓国は病院、介護施設、デジタルヘルスケア、スマート行政を素早く結びつけることができる。中国はロボット産業と製造業の規模を提供できる。台湾はセンサー、半導体、精密部品という重要な基盤を供給できる。

各国がそれぞれ別々に介護ロボット、遠隔医療、介護データシステムを開発すれば、コストは上がり、市場は分断される。反対に、最低限の安全基準、データ形式、認証制度、保険適用の枠組みをそろえることができれば、東アジア全体がひとつの巨大な高齢化関連技術市場になる可能性がある。これは単なる産業政策ではない。ともに老いていく地域が、互いの負担を軽くするための方法だ。

その次の協力は、より静かで実務的なかたちを取るだろう。研究者、エンジニア、医療技術者、ロボット専門家が、短期プロジェクト、共同研究、産業フェローシップを通じて地域内を移動する仕組みを作ることができる。これは大規模な定住移民ではなく、知識と経験の循環だ。製造業では、産業用ロボット、半導体、バッテリー、スマートファクトリー、精密部品、ソフトウェアが結びついた自動化サプライチェーンを築くことができる。都市政策では、ソウル、東京、大阪、釜山、台北、香港、上海が、高齢者に優しい住宅、空き家再生、無人交通、地域医療、スマート行政の実験を共有することができる。

この程度の協力で、東アジアの長年にわたる政治的対立が解消されるわけではない。しかし、すべての協力が和解宣言から始まる必要はない。共同声明よりも共通規格のほうが長く残ることもある。首脳会談よりも、病院、研究所、都市政府が繰り返す実験のほうが多くを変えることもある。東アジアは、今すぐ互いを愛する必要はない。ただ、同じ問題を少しだけ愚かでない方法で解けばいい。

ここまでが、技術にできることだ。しかし、技術にできないことも明らかに存在する。ロボットは子どもを産まない。AIは家族を作らない。生成AIがどれほど流暢になったとしても、お盆や正月の食卓で親から飛んでくる「結婚は?」という質問を、代わりに受け止めてくれるサービスまで国家政策として導入することはできないだろう。アルゴリズムは、孤独な高齢者の手を握る、その人間の手の代わりにはなれない。センサーはケアの危険を減らすことはできても、ケアの意味を作ることはできない。

ケアは、単なる労働時間の問題ではない。人間関係の問題だ。子どもを持つことも、単なる経済的支援の問題ではない。人生全体の見通しに関わる問題だ。住宅価格があまりにも高く、教育競争が過度に激しく、仕事と家庭の両立が難しく、未来が不安定なままであれば、人々はこれからも子どもを持たないだろう。AIとロボットは少子化の原因を取り除くことはできない。ただ、少子化がもたらす衝撃を和らげることができるだけだ。

そして、技術がうまく機能したとしても、もうひとつの問題が残る。自動化が減少する労働力を補うとき、その利益は誰のものになるのか。ロボットが工場労働者十人分の仕事を代替したとしても、生産性向上の果実がその十人に戻ってくるわけではない。多くの場合、それはロボットを所有する企業と、その企業の株主に流れる。人口が減る社会が、自動的に豊かになるわけではない。少数の人々がより多くの富を所有し、その外側にいる多数の人々が、仕事も交渉力も失ったまま取り残される社会になる可能性もある。

これは軽視できる懸念ではない。人口が減る時代には、本来なら労働者の交渉力は高まるはずだ。人が貴重になれば、賃金は上がる。しかし、その希少になった労働を機械が代替するなら、労働者は貴重になる前に置き換えられてしまう。需要と供給の法則が労働者の味方をしようとした瞬間に、機械がその法則を追い越してしまうのだ。

技術が生み出した豊かさが、すべての人に共有される豊かさになる保証はない。自動化は、分配の設計とともに進まなければ、危機を解決するのではなく、その形を変えるだけだ。過疎化した地方と崩壊する年金制度の代わりに、光り輝く自動化工場と、その陰で仕事を失った人々が残るだけかもしれない。東アジアが答えるべき問いは、「機械は人間を代替できるか」ではない。その問いには、すでに技術が答えつつある。より難しい問いは、「機械が生み出した生産性をどのように分け合うのか」である。

したがって、東アジアは、出生率を過去の水準に戻そうとする不可能な郷愁だけにとらわれるべきではない。もちろん、子どもを持ちたいと願う人が、実際に子どもを持てるように、住宅、ケア、教育、労働時間、ジェンダー平等をめぐる条件を変えることは不可欠だ。しかし同時に、より少ない人口でも尊厳を保ちながら機能する社会を設計しなければならない。人口減少の時代に必要なのは、単に数字を回復させることではない。より少ない人々でも生活の質を維持できる制度、技術、都市を作ることだ。

この意味で、東アジアの未来は、ディストピアとユートピアの間のどこかにある。一方には、空洞化する地方都市、孤立する高齢者、過重労働に苦しむケア労働者がいる。もう一方には、自動化された工場、スマートな病院、より短い労働時間、そして人間の創造性と機械の生産性が支え合う新しい経済がある。

どちらの未来が現実になるかは、出生率だけで決まるわけではない。技術をどのように配置するのか、生産性向上の利益をどのように分配するのか、人間の暮らしの何を中心に据えて社会を再設計するのかにかかっている。そして、東アジアの国々が互いの失敗と成功から、どれほど真剣に学べるかにもかかっている。

もしかすると東アジアは、人口減少を通じて、20世紀型の成長主義の終わりに世界で最も早く直面しているのかもしれない。より多くのマンション、より多くの試験、より長い労働時間によって維持されてきた時代は終わりつつある。その次に訪れる社会は、必ずしも衰退である必要はない。それは、大きくなれないからこそ、より精密に設計されなければならない社会かもしれない。都市は拡張を止め、地方は再編され、労働は減少し、人間は機械とともに新しい方法で生きていくのかもしれない。

人口減少は確かに危機だ。しかし、すべての危機が破局であるわけではない。古いシステムがもはや機能しないという合図であり、新しい文明を設計せよという圧力として現れる危機もある。東アジアの少子化は、まさにそのような圧力なのかもしれない。日本から始まったように見えた問題は、いまや韓国、中国、台湾を横断する地域全体の問いになった。

人口が減る時代に、国家は何によって強くなれるのか。 家族が小さくなる時代に、社会はどのようにケアを担うのか。 機械がより多くの仕事をする時代に、人間は互いに何を保障すべきなのか。

東アジアの次の世代は、これらの問いに答えなければならない。その答えは、おそらく人口増加だけからは生まれない。より深い技術、より成熟した社会契約、そして不快であっても避けることのできない地域協力。答えは、そのあいだのどこかにあるはずだ。

東アジアは、ひとつの政治共同体にはなれないかもしれない。しかし、ひとつの人口危機の実験室にはなれる。そしてもしかすると、その実験室でこそ、人口が減少する時代の新しい文明が、最初に形を取り始めるのかもしれない。

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